人生の棚卸し
摂食障害やアルコール依存症の自助グループでよく使われている、『回復のための10(もしくは12)ステップ』というのがあって、
ふと、昨日それを思い出した。
一時期、摂食障害の自助グループに通っていたのだけど、数年前断捨離と称してアレコレ処分した際、
そこでもらったノートも捨ててしまったため、
正確に思い出すことはできないのだけど、
たしかそのうちのひとつに、
『人生の棚卸しをする』
って項目があったような気が。
4年くらい前、
当時付き合っていた人との関係とか、
滝のこととかで、過食嘔吐の症状とか、自傷行為みたいなことをほぼ毎日していて、
カウンセリングと病院受診に加えて、自助グループにも通わせてもらってました。
ミーティングに出させてもらったり、
ワークショップに参加させてもらったり、
毎日のように手紙に思いの丈とか、日常の中で起こったことを書きながらようにして、
『捨てさせて』もらってました。
捨てる、というのは、
当時も今も、ついつい溜め込みがちな思いを、それこそ嘔吐するみたいに吐き出しさせてもらう、という感じに、
言葉は悪いのだけど、当時の私は思ってました。
付き合っている人とのことも、
滝のことも、たしかに大きな課題だったけど、
それ以上に自分の中で大きかったのが、
『どうやって生きていくのか』
『何をして生きていくのか』
『そもそも生きていけない、という気持ちが強すぎて、将来のことを考えられないことをどうするのか』
という、生きる上で根本的な課題。
きっと誰しもが抱えている課題だろうし、
漠然としすぎているし抽象的すぎるので、
雲をつかむようなものではあるのだけど、
これに答えが出なくては、前に進めない気がしてて、
同時にあまりに大きい課題だものだから、
当時の自分がどうしたかというと、
『いったん、棚上げ』
と思ったのです。
そして、より具体的な課題に先に着手して、
(付き合っていた方とはお別れし、滝はとりあえず続けていくことにして)
気づいたら、4年経ってました。
その間、たまに過食がぶり返すことも(再発か?というくらい続いてしまったことも)ありましたが、
4年前の状態に比べればかなりマシな精神状態で生活することができ、
病気の事ばかり考えて生活していた頃がモノクロの世界だとしたら、
鮮やかな色彩が溢れる、本来の世界の中にようやく出てこられたというような、
大げさな言い方をすれば、そのくらいの差がある毎日を送ることができてきたと思います。
感情ってこんなに痛いのだということ、
悲しみ、苦しみ、喜びや楽しさといった感情の鮮やかさにも触れたし、
ただふつうに生きているということの、
なんて大変なことなんだということもしみじみ思ったし、
どっちが正解で間違いってことではないけど、
摂食障害という病気に、ある意味守られていた頃には感じなかったあれやこれやを感じることに、
喜びと同時に破裂しそうな思いを、
表現できたりできなかったりしながらの、ここまでの道のりでした。
40歳がだんだん目の前に迫ってきて、
体調の変化も伴って、
このまま滝を続けられるのか?という不安が大きくなり、
『滝をやめたらどうなるのか』
『滝をやめたらどうしたいのか』
という思いが、最近ずっと、心の中にあります。
この問いは、4年前棚上げにした、
『どう生きたいのか』
という問いから派生していて、
現状、
滝は好きだし、とりあえず続けたいと思っているけど、
同時に少し環境を変えたいとも思っていて、
じょあ、どう変わりたいのか?
どんなことをしたいのか?
という問いに対する答えがまだ出ない。
とりあえずちょっと旅に出たいとか、
そういう願望はあるのだけど、
もっと長い目で、
どうやって生きていきたいのかみたいなことが、
見えない。
マシュマロ実験と同じで、
その場その場で、目の前のことだけ、
『とりあえず』と生きていくことしか出来なくて、
長期的なビジョンを持つのが苦手なんだな。
棚上げした荷物を、
棚卸ししてみる時期。
どんなものがあったんだっけ?
と、確認する時期。
どうやらそんな時期にさしかかっていそうです。